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運命的な佐藤先生との出会い

前述したように松本歯科大学の非常勤講師になったのが1989年でした。その年にアメリカへ短期留学しては、矯正歯科の理論や技術を勉強していましたが、どれも第一小臼歯を抜いて治療するという従来の方法ばかりで、私はよけい悩むばかりでした。

 

そんな1991年の秋でした。松本歯科大学でやはり非常勤講師を務めていた人から、「ボストン大学のドクタ−・キムは、歯を抜かないで矯正をやってるすごい先生なんだが、今度、日本で講習会をやるらしいよ」という話を聞きました。悩んでいた私が、これはとばかり飛びついたのはいうまでもありません。その講習会は京都で行なわれるというので、さっそく主催している会社に申し込みました。ところが「すでに定員いっぱいで無理です」。そこで退くわけにいきません。なんとかお願いしますと、何度となく頼み込み、ようやく了承してもらいました。

 

キム博士は矯正装置のマルチル−プエッジワイズア−チワイヤ−(MEAW)の開発者として知られています。その講習会はキム博士の講演が中心で、合間に登壇したのが、当時神奈川歯科大学助教授(現在・同大学成長発達歯科学講座教授)でした。

 

キム博士のマルチル−プを使う治療の講演も興味深いものがありましたが、佐藤先生のお話には文字通り目からウロコが落ちる思いでした。というのも、佐藤先生の講演内容は、生体の基礎理論だったのです。歯はどうして生えてきて、どういうところにきているかという問題を提起したうえで、頭の頭蓋骨を全部分解し、こうなっているからこう治すということを話されたわけです。それを聞いた瞬間、「あ、これだ!」と思わず心の中で叫んだくらいでした。

 

この本をここまで読んでこられた方は、すでにそういうことを書いているではないかと思われるでしょうが、当時の私は矯正というものを歯だけを基準に、いいかえれば歯しか見ていなかったのです。そうではなく、生体の全体から見る必要がある。基準は中にあり、顎の関節から側頭骨などは、みんな動くのだから、それを考えて治療するという考えに、自分の悩んできた部分にぱっと光があてられたような気持ちになりました。

 

佐藤先生がそういう考えを持たれるようになった経緯について、自ら記された文章があります。かなり専門的な内容ですが、矯正歯学の流れについても貴重なものであり、一部を引用させていただきたいと思います。

 

20世紀後半の約30は年歯科咬合学にとって苦難の時期でありました。長年のナソロジ−の歴史は終わりを告げようとしていたし、顎機能に関する新たな発想と展開が待ち受けていました。私は、そんな時期の1971年に神奈川歯科大学を卒業しました。しかも、どういうわけか当時あまり興味のなかった歯科矯正学を学ぶことになったのです。当初の数年間は、教科書やら先輩から教わった矯正治療の方法で不正咬合にアプロ−チしていましたが、すぐに壁にぶつかりました。治療の長期化、いわゆる後戻り、歯根吸収、治療困難な症例、そして10年後には多くの問題に直面して、解決法のないまま途方に暮れるような日々が続くことになります。1980年代に入って、顎関節内障という概念が提案され、歯科矯正治療は、ますます泥沼化する感じを受けました。

 

現代医療の分野で、治療結果が思わしくないというのは、その医療分野がまだ成熟していないことを意味し、解決すべき課題が多いことを示しています。歯科矯正治療において、われわれは、何か大事な現象を逃している、歯科矯正の診断には何かが足りない、という思いが長いこと私の脳裏から離れませんでした。その当時、治療がうまくいかない症例に共通する問題点があることに気づいていました。咬合平面です。しかし、咬合平面は、当時の歯科矯正学会ではあまり語られることのない課題だったのです。

 

1985年にY・H・Kim先生のコ−スに恵まれ、また1989年にはオ−ストリアのR・Slaicekk先生と出会うことができたのは、私にとっては人生における最大の幸せでした。Y・H・Kim先生からは、MEAWという道具と咬合平面のコントロ−ルという概念を教わり、またR・Slaicek先生からは、シ−クエンシャル咬合という総合的な個性正常咬合の概念を教わりました(後略)」(平成17年11月第一歯科出版刊行「MEAWを用いた矯正治療 アドバンス編・序文より」)

 

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