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あちこちタライ回しにされ

前章の終わりに、矯正歯科医を志したもののの「イバラの道」だったといいましたが、実際、最初からつまずいてしまったのです。

 

私が大学を卒業したのは昭和53(1978)年でしたが、先に話したように当時は歯科の世界で矯正はまだ需要も少なく、傍流の分野でした。したがって、大学を卒業して付属病院の矯正科に残りたいという希望者も、例年2人ほどにすぎませんでした。ところが、私の卒業年次にはなぜか矯正科志望者が非常に多かったのです。

 

そのため例年の倍、つまり4人を採用することになりましたが、当然、その枠をめぐって競争になります。ここでやっかいなことが起きたのです。前述したように私の父は東京医科歯科大出身で、卒業後の一時期、大学病院で矯正歯科にいたことがあります。その父の後輩が私たちの大学の矯正科の教授を務めていました。となると、父の関係で私が優先的に採用になるのでは?と矯正科志望の同級生たちがカンぐったわけです。

 

それで、私は彼らに呼びつけられ、ずいぶん非難されました。それまで仲のよかった同級生たちからの仕打ち、これは嫌な経験でした。私は大学に採用されるされないにかかわらず、矯正歯科の道を歩いていくつもりでした。同級生たちも同じ矯正歯科医をめざしているのですから、むしろお互いに助け合っていくべきはずです。それを裏切られたようなやりきない気持ちでした。

 

結果は、私は不合格、大学に残ることはできませんでした。医学の世界ですから、父親がどうであれヒイキなどはありえません。不合格は私の実力です。そう割り切っていた私に教授は「矯正歯科医でやっていくなら、実践から始めたらどうか」と勧めてくれました。当時、名古屋市で矯正を専門に行なっているクリニックは4軒ほどしかなく、そのひとつを紹介してくれたのですが、そこへ通い始めてわずか2週間後、院長から「名古屋の中心街で、先端的な歯科矯正をやっているところがあるから、君はそこへ行きなさい」と言い渡されてしまったのです。

 

−オレという男は、よくよく見放される運命なんだな・・・・。


そんな思いをいだきながら、いわれるままに移ったのが、名古屋市栄区にあった浅見矯正歯科でした。結果的に、ここで矯正治療の実地に取り組み、マスタ−したのですから、浅見先生が私の最初の恩師ということになります。

 

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