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開業医・大学講師の二足のワラジ

ここで少しプライベ−トなことにも触れておきますが、大学院に入る少し前、私は結婚しました。妻は大学時代の友人のいとこにあたり、長い交際を経ての結婚でした。

 

結婚前までは勤務医でしたから給料を得ていましたが、大学院生になるとこれがなくなってしまいます。院生も平日の一日はアルバイトが許可されていましたので、浅見歯科で仕事し、土曜日も別の歯科クリニックで働いていました。しかし、週2日だけの仕事では収入もたかがしれています。それを助けてくれたのが家内でした。彼女は小学校の教師をしており、それでなんとか家計を支えてもらったようなものです。

 

大学院3年生のときには長女が誕生、以後、3人の子供に恵まれましたが、子供の教育などすべて妻まかせでした。私の父も研究者タイプで、家のことはもちろん、保険請求の仕事などもすべて母にまかせていましたが、私も似たようなところがあり、いまがあるのも妻のおかげとつくづく思います。
さて、閑話休題。本題に戻りますが、昭和60(1985)年に大学院ドクタ−コ−スを修了しました。このとき、歯学博士号を取得しましたが、テ−マは「●●●  」でした。ここまでは順調だったのですが、このあと、またいろいろとイバラの道だったのです。

 

院生時代に矯正科もサブで勉強していた私は、本来の大学病院矯正科に入り、非抜歯矯正の研究をしたいと考えていました。しかし、当時の矯正科で博士号を持っているのは教授と講師の2人だけ、そこに新人の博士が入ってくるのはと敬遠されてしまいました。しかたなく、生活のために以前勤めていた浅見矯正歯科に「もう一度、働かせてもらえませんか」と頼んだのですが、「博士号を持っているような人に高給を払う余裕はない」と、ここも断られてしまったのです。

 

そうなると、もう開業するしかありません。現在のように矯正歯科花盛りの時代ではなく、浅見先生が患者を集めるため、ほかの一般歯科医の先生に頭を下げたりするのも見ていましたから、開業には勇気がいりました。しかし、ほかには道がなく、大学院を修了したその夏、愛知県刈谷市の刈谷駅前ビル内の一室を借り「岸本矯正歯科」を開業しました。

 

一方、たしか当時、日本歯科学会の分科会のような形で日本矯正歯科学会というのがあり、認定医制をとっていました。この認定医は学会所属の大学教授の承認が必要でした。私はそれまですでに7年間の診療経験があり、技術的には十分な自信もあったのですが、矯正歯科専門医としては亜流といわれてもしかたありません。

 

そこで恩師の亀山教授に相談したところ、先生の後輩が矯正歯科教授をしている松本歯科大学に紹介してくれました。それからというもの、自分のクリニックで診療しながら、毎週、松本へ通うという生活です。途中から松本歯科大学非常勤講師の肩書きもいただくと同時に、もちろん矯正歯科の認定医も取得しました。

 

開業医と大学非常勤講師という二足のワラジをはいた忙しい日々でした。それらの日々、私の胸の奥にあったのは「歯を抜かないでできる矯正」、その理論的な裏づけと具体的な方法、それをなんとかして身につけたいという思いだったのです。

 

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