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歯医者嫌いの少年

人の一生には「原点」「転機」があるとよくいわれます。歯科医としての私の原点は生まれた家そのものにあるようです。なにしろ祖父、父が歯科医で、私は男3人兄弟の末っ子ですが、兄弟全員が歯科医の道に進んだのですから、歯科医になるべくして生まれたようなものです。そして「転機」は、ずっと後年、歯を抜かない矯正治療に出会ったことですが、まず、原点となった少年時代のことからお話してみましょう。

 

昭和28(1953)年7月、私は現在の岡山県津山市に生まれました。津山市に合併される以前の当時は、苫田郡加茂町でした。加茂町は林業の町で人口約5千人の田舎町でした。岸本家はもともと大きな醸造業を営み、
自費で町の川にかかる橋を建設、いまも「きしもと橋」という名前で残っておりますから、地元では資産家だったのでしょう。

 

私の祖父にあたる人が分家して、歯科医を開業、父も歯科医を志し、東京医科歯科大学に進みました。研究肌だった父は、卒業後新潟大学に招かれたのですが、兄弟が多く、その面倒をみなければならず、郷里に戻って歯科医院を開きました。私の母も、同じ岡山の醸造家の出身で、父はと見合い結婚だったそうです。

 

息子たちにも同じ歯科医の道を歩ませようと思っていたのでしょう、父は教育熱心で、とくに6歳上の長兄はずいぶん厳しく育てられたようです。4歳上の次兄もやはり勉強にはうるさくいわれていたようです。しかし、末っ子の私には父も母もあまり厳しくあたることもありませんでした。母方の実家に子供がおらず、一時期私が養子にもらわれていったこともありました。家業が造り酒屋ですから、それまでの歯医者の家とはまったく異なる環境で、面白かったのですが、何かの事情で1年足らずで、また実家に戻ったのです。 そんな具合で、私は比較的のんびりした少年時代を過ごしました。長兄のように早くから将来は歯科医にと、思い定めていたわけでもありません。

 

先ほど歯科医の家に生まれたことが私の原点、そういったことと矛盾するようですが、実は子供の頃の私は「歯医者嫌い」だったのです。これには時代のせいもあるでしょう。

 

この50年ほどの間、医学は日進月歩の勢いで発達してきましたが、歯科の分野もめざましいばかりに進歩をとげました。新しい治療機器や治療技術がつぎつぎに開発され、いまでは子供から大人まで、気軽に歯科医を訪れます。小児専用のやさしい治療をする歯科医院もたくさんできています。

 

しかし、まだ技術や機器もそんなに発達していなかった昔は、歯科医院は子供にとって「歯を抜かれて痛い目にあわされる」恐いところでした。私自身も養子にいかされていた時期、その町の歯医者にかかり、ひどく痛い思いをしたこともありました。実家に戻ってからは、父が私が通う小学校の校医も兼務していましたから、歯の検診のときなど、同級生たちに「お前のオヤジのせいで痛い目にあわされた」などと、文句をいわれたりしたものでした。

 

そんなことから、少年時代の私は「歯医者嫌い」だったのです。その私が結局、歯科医の道を進むようになったのは、いま思えば、やはり父の姿を見て育ったからにほかならないような気がします。

 

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